政教分離原則と宗教的非寛容

◆仏はなぜ“ブルキニ”を禁止したか

「自由・平等・博愛を旗印とするにもかかわらず、フランスでは公立学校でのヘジャブ(ベール)の着用が禁止されている。信教の自由の侵害ではないか?論ぜよ」。私はかつてイスラム文化論の学年末試験に毎年この問題を出した。「ライシテ」と呼ばれる仏の政教分離原則の本質とは何かを問う問題である。昨今、リビエラ地方でイスラム式のブルキニ(体全体を覆う水着)着用への罰金が法制化されて物議を醸しているが、「人がどんな服装をしようと自由だ」との主張に、宗教的寛容度120%の日本人の多くは頷くのではないか。しかし、仏が国是とする政教分離とは、宗教を信じない自由も含めた、市民の「良心の自由」を国家が積極的介入によっても保障しようとする制度である。この点が、国は宗教に関わってはならない、とする日本の政教分離原則とは180度異なるということを書けば、冒頭の答案は100点満点だ。ただそれは日本の学校教育では教えられておらず、マスメディアも無視している(おそらく多くは知らない)ので、理解が深まることがない。

◆傷ついたイスラムの宗教感情

ヘジャブ禁止が問題になったのは10年以上前だが、当時から懸念したとおり、欧州におけるイスラムと西洋の文化の摩擦圧力は強まる一方で、斧や、自動車による轢殺といったおぞましいテロが頻発している。そのような情勢の下では、イスラム式の服装を見ただけで恐怖に感じたり、敵愾心を刺激するという、いわゆる「イスラム恐怖症」が欧米社会に拡散するのも不思議でない。このため、ヘジャブやブルキニといった服装を、世俗社会を守る観点から禁止するという行為が、別の文脈、すなわち差別、排他主義、宗教的非寛容の表れではないか、という疑念をもって語られるようになった。換言すれば、せっかく宗教的な摩擦を避けようと措置しているのに、そのことが却って宗教的感情や、民族的な誇りを傷つけているのだ。海岸で戯れるキリスト教の修道女の一団の写真を示して「これは許されるのか?」と問いかける投稿や、「罰金は全部肩代わりする」というアルジェリアの富豪の発言が注目されるのは、イスラム教徒の自尊心が傷ついているからだ。

◆多神教・世俗主義 日本社会の反応

たかが服装、ではない。フランス以上に世俗主義(政教分離)を徹底していたトルコでは、イスラムへの回帰を唱えたエルドアン大統領の政党(AKP)が国民の支持を集め、大統領夫人がヘジャブを着用して公衆の面前に立つようになった。先般、失敗に終わったクーデターは、かつての主流である世俗主義者が起こしたと信じられている。独裁色を強めるエルドアン大統領の支持者たちは今、深紅のトルコ国旗をうち振るって歓呼しているが、そこにはナショナリズムに忍び寄る宗教的過激主義の匂いが充満している。翻って、日本はどうか?私はかつて「関東地方のある町で外国人イスラム教徒の人口が急増したため、地価が暴落した。住民にヘジャブ着用を禁止する条例を制定することは許されるか?」という問題も出していたが、幸いにこの「予測」は外れたようだ。北関東には予想どおり「…スタン」の愛称で呼ばれる外国人密度の濃い自治体が出現しているが、異文化は溶け込み、融合し、新たな文化が生まれているという。多神教・日本の世俗社会は世界に誇れる博愛主義を実践している。  

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