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中東の強権政治とどう付き合うか

◆スーダンの弾圧で100人死亡

民主的な改革を求める人々が座り込みを続けているスーダンの首都ハルツームで、治安部隊が強制排除に乗り出し、およそ100人が死亡、数百人が負傷し た。第二の「アラブの春」とも呼ばれる「民衆蜂起」の様相であり、首都は混乱が続いている。事実上の支配者である軍によるこの強硬措置は、エジプトのシシ現大統領が 2013年8月、選挙で選ばれた 前大統領をクーデターで倒 したことに抗議する民衆数百人を「虐殺」した事件に酷似している。 報道によれば、スーダン軍事評議会の議 長らは、この事件を起こす直前にエジプト、サウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)を訪問して各国首脳と協議しており、現場では、近く介入があると予測されていたという。

◆「恐怖」でしか治められない?

先進主要国、とりわけ我が国の経済界はエジプト、サウジ 、UAE に熱い視線を送るが、 人権をめぐるこれら国々の行動様式は先進国の 眉をひそめ させ る ものだ。ムハンマド・サウジ 皇太子の記者暗殺事件への関与疑惑は晴れていないし、UAEはイエメンの人道危機について、サウジととも に国際的非難を受けている。日本ではほとんど報道されないが、それぞれの国において裁判手続きを経ない反体制派の拘束、処刑が行われている。
これら3国は、「カタールがイスラム過激主義者を支援している」として、同国と断交(経済封鎖)していることにもみられるように、「対テロのためには強権支配はやむを得ない」との論理を振りかざす。
一方で、そのカタールに支援の手を差し伸べるトルコは、公然とイスラム過激主義を擁護する政権だが、こちらも大統領の権限が強化され、国民は抑圧されている。「恐怖」によってしか治めることのできないのが中東、と匙を投げるほかはないのであろうか。いまや中東は 、「自由はないが政情は比較的安定している」国々と、無政府状態に陥り戦闘、殺戮、飢餓が常態化している地域、に二分した感がある。

◆日本ももの言う絶好の機会

このような中東 の出現を許した最大の責任は、ブッシュ政権に遡る 歴代 米政権の迷走外交、とりわけ中東を武器の売りさばき先と しか認識しない トランプ大統領の 異 常な政策にあると思われる。 しかし、そんな米国であっても議会ではサウジ懲罰が議論されるなど、一定の歯止めがある。また、人権擁護を重要な外交的価値と認める欧州諸国は、それぞれの事案に より真剣に取り組んでいる。ドイツなどでは、武器輸出を禁止したり、特定の政府要人の入国を制限するなどの措置が取られた。
しかし翻って我が国を見れば、メディア が取り上げるほど大きな問題が起きた時に口先だけの非難をすることがあっても、官民ともに business as usual(変わらぬお付き合い)を続けているのが現状だ。「大人の対応」と評価すべきなのか。このよう な日本人の性向を中東の当該国はありがたく 思っているようだが、半面、日本の国際的地位の低下と無関係ではないように私は思う。
今夏はG20首脳会議や TICAD7 (第7回アフリカ開発会議)で、これら諸国の首脳が来日する。長期的に健全な経済関係を築くためには、健全な国家運営が大前提である。日本が、国際社会の懸念を代表して、しっかりとものを言う、絶好の機会が訪れる。

ベールを被った女性宰相

NZ首相にイスラム世界から称賛の声

モスクで礼拝中の人々を無差別に大量虐殺するという衝撃的な事件の対応に当たったニュージーランドのアーダーン首相のイスラム圏における評価がうなぎ上りだ。イスラムのしきたりを受容する形でベールを被った女性宰相の姿はドバイの超高層ビルにも投影され、「ノーベル平和賞を!」との呼び声まであるという。首相は率先して頭髪を覆い、国会にイマームを招いて、世界的にも例のない議場での「コーラン朗誦」をさせ、テレビ・ラジオ局には礼拝の呼びかけである「アザーン」の放送を要請した。この、異例づくめの「パフォーマンス」は、「謝罪するなら威儀を正してせよ」ということだろう。「犯行は明白なテロ」、「(白人至上主義は)ニュージーランドにも、世界のどこにも居場所はない」、という首相の明解なメッセージが、曲解されることなくイスラム世界に届けられたのは、この「歩み寄り」があればこそ、であった。それは、冷徹に計算されたパフォーマンスであったのか、それとも天才的政治家と言われるアーダーン首相の本能がそうさせたのか。いずれにせよ、傷ついた世界中のイスラム教徒の心を和らげ、双方の過激主義者に教訓を与え、何より、犠牲者と遺族の心に、多少なりとも癒しを届けた。

◆価値観めぐる移民との軋轢が深刻化

それは、危機管理のお手本と言うべきで、憎悪とテロの連鎖を防いだのかもしれない。そんな評価が言われる一方で、一部の専門家には評判が悪い。イスラム教徒でない首相のベール姿は、偽善に過ぎない、というのだ。批判の中には、「ベールを着用しない自由」を求めているイスラム世界の進歩的な女性を裏切った、というものまである。つまり、西側の過激主義を否定しようとするあまりに、イスラム世界の過激主義におもねた、という非難だ。

この議論の根底には、「郷に入って郷に従わない」イスラム教徒、の問題がある。このような、イスラム教徒を中心とする移民と西側の価値観の軋轢は今に始まった話ではない。筆者はイスラム文化論を講じていた十数年前、「関東のある都市で、ベールを着用する移民が急増し地価が急落した。そこで住民がベールの着用を禁止する条例を求める運動を起こすこととなったと仮定して、その正当性を主張する論理を展開せよ」という試験問題を出題したことがある。わが国における移民増加は緩やかで、筆者の予想よりは遅れているようだが、欧米で深刻になっている価値観、習慣の摩擦・対立は、やがてわが国でも顕在化するだろう。先月、佐野市で発生したインドネシア人への加害事件は気掛かりである。

日本でイスラム教徒が「郷に従わない」と

イスラム教徒は「郷に従わない」と述べたが、少なくとも日本のイスラム・コミュニティーについて言えば、それは正しくない。関東に点在するモスクから、もし「アザーン」が拡声器を通じて1日5回、大音響で流されるとしたら、どうなるか。まさに上記のような条例請願が出されるか、その前に忌むべき事件が起こるかも知れない。それを防ぐために、イスラム教徒側で、アザーンの声はモスクの外に漏れないよう、自主規制しているのである。日本に白人至上主義はないが、「排斥主義」は存在する。アーダーン首相のような博愛主義的対応は、日本人の多くの共感を得るが、もし、イスラム教徒が日本の地域社会に配慮しない生活を始めたときには、わが国の極右もイスラム排斥を旗印に加えることだろう。クライストチャーチ事件への日本社会の反応の鈍さには驚いたが、これは時間の問題だ。

暴力的過激主義と戦う

◆テロを現象面からとらえる

10月末、トルコの保養地アンタルヤで、世界の研究者と実務家を集めた「暴力的過激主義対策」のシンポジウムがあった。主催したのはアブダビ(アラブ首長国連邦)にあるこの分野の独立した世界的研究センター「ヘダーヤ」だ。今更の議論だが、世界的関心事である「テロリズム」について、国際社会は統一した定義を提供することができない。ある国のテロリストは、別の国や民族にとっては「自由の戦士」であるかもしれないからだ。つまり、「イスラム国」(IS)やアルカイダが怪物のように急成長した背景には、そのような民族、宗教間の不一致が横たわっている。そこで国際社会はこの問題をより現象面から捉えることとし、いわゆる「テロ」を起こすのは、暴力を肯定する過激主義の萌芽と成長であり、これと戦い、また防止するために具体的な行動を起こすことが、世界の安全と人権を守る有効な手段であると考えるようになった。イスラム過激主義の研究を深める上で、このアプローチは避けて通れない。そんな思いから今年で第4回を迎えた国際シンポに参加した。

◆SNSの「エコー・チェインバー」効果

驚いたことに、初日の発表者の多くは、イスラムの教義を淵源とする過激主義ではなく、欧米社会がイスラム主義の台頭と共に苦悩している彼ら自身の「極右」思想の広まりについて語った。暴力的過激主義との戦いにおいては、ソーシャルメディア(SNS)を使った宣伝、洗脳、リクルート活動等をどのように防ぐか、という論点が一つの柱をなしている。ISはその効用を最大限に利用して、にわか「ジハード(聖戦)戦士」を獲得、欧米で惨劇を起こさせたが、欧米の「極右」勢力もまた、SNSを駆使して①問題提起をし、②共鳴する仲間を集め、③一つの過激思想を信奉させ、④行動を扇動する―という過程を踏襲していることが報告された。とりわけ、この過程で大きな役割を果たすのがSNSの一大特性である「エコー・チェインバー」効果である。「エコー・チェインバー」とは、ある特定の教義だけが唯一正しいものとして密室の中で反響し、参加者は異なる意見を持つことができなくなる状態をいう。このような特性を持つSNSは、使い方ひとつで、イスラムであれ、他宗教であれ、はたまた世俗的な極右思想であれ、それを過激化、暴力化させる上で最も強い力を発揮する道具となる。

◆日本も他人事ではない

外国人の入国者数が倍々ゲームで増え、2020年東京五輪をも控えている我が国においても、暴力的過激主義による事件の発生は刻一刻と近づいているのではないか。そういう明確な問題意識の下に当局は研究と情報収集に当たっているに違いない。しかし我々が今注意すべきは、何もイスラム系の過激主義だけではないようだ。英国の「ブリテン・ファースト」や、豪州の「リクレイム・オーストラリア」といった極右の過激主義団体が、SNSの力を借りて急激に勢いを増したように、日本でも似たような状況が起こり得るのではないか。民族的、宗教的に均質性の高い日本社会では、過激主義は起こりにくく、ましてその暴力化はあり得ないと考える向きも多かろう。しかし、いわゆる「ネトウヨ」や「ヘイト・スピーチ」の問題は日本人同士、または、近隣諸国出身者との間で、既に摩擦を起こしている。ほとんどの国民にとってSNS利用が日常となった今、国民一人ひとりが、このバーチャルなコミュニケーションの特性や危険な点をより良く理解し、リテラシーを高めていく必要があると思い至った。

イスラム世界は自己変革を

◆相次ぎテロで「禁句」に言及

ロンドンで3か月間に3度目の無差別テロが発生した翌日の6月4日、メイ首相は「もうたくさんだ」との強い非難の言葉と共に、惨劇を繰り返さないためには「4つの変革」が必要だと声明した。注目されたのは、首相が「共通のネットワークは存在しないが、事件はひとつの重要な意味でつながっている」として、「イスラム過激主義という邪悪な思想」と戦う、と述べたことだ。首相はさらに「それは、憎悪を煽り、分裂と分離主義を慫慂し、西洋の自由と民主主義、人権を重んじる価値がイスラムとは相容れないと主張する思想だ」、と断定した。この認識は世界的にも広く共有されているが、「イスラム」を名指しすると、英国社会のイスラム系移民、反イスラム勢力の双方を刺激するため、いわば、禁句であったはずだが、相次ぐテロにもう堪忍袋の緒が切れた、といった体である。

◆事件のたび「イスラム無罪」論

最近、世界的には「暴力的過激主義」(Violent Extremism)対策という用語が用いられ、イスラム世界を刺激しない形で、しかし、イスラムの教義から派生している(あるいは、西欧からのイスラム世界への加害に対する反発として生じている)過激主義思想をどうやって抑え込むか、という取り組みがある。
メイ首相が変革の2番目に挙げたとおり、過激思想はインターネットによって拡散しているので、サイバー空間に積極的に規制をかける、または、逆に、反過激思想のキャンペーンをネット上で行う、といった対策が有効と見られているのだ。テロの直接的な被害が発生している欧米と中東イスラム世界の政府レベルでは、この面の協力はある程度進んでいる。しかし、変わることができずにいるのは、イスラム世界の宗教指導者と一部イスラム教徒のメンタリティであろう。事件が起こるたびに、「イスラムは無罪!」つまり、「過激思想はイスラムとは無関係だ」との主張が指導的立場にある人や言論界から出される。
メイ首相も過激思想が問題だと言っているのであり、宗教としてのイスラムが悪いとは一言も言っていない。しかし、現実は残酷だ。テロを起こしているのはイスラム教徒であり、間違っているとはいえ、宗教的な動機によって無辜の命を奪う暴挙に出ているのだ。反イスラム感情が高まるのは当然である。

◆過激思想の素地認めよ

恐れていたら、やはり「仕返し」と思われるモスク周辺での襲撃事件がまたロンドンで発生した。私見にわたるが、イスラム世界は変革する必要があるだろう。過激思想を生んでいる素地が宗教の教義そのものにあることを認め、教義を変えることができないにせよ、テロリストを生んでいるのはイスラム世界であり、イスラム世界としてそのことに責任を感じその対策を講じる、ということでなければならない。
しかし、現実には多くの武装集団、民兵、私兵が玉虫色の合法性を主張し、宗教権威によってお墨付きを得ている状態だ。また一方で西欧社会は、メイ首相のようにイスラムを名指しして非難することは出来るだけ避けるべきである。事実であっても時にそれは言わない、というのが人智というものだ。「イスラ
ム」とタグをつけるだけで、「首相は過激思想を取り締まっているのであって宗教は非難していない」といった言い訳は、激高した大衆には無力となる。仮に世界の「暴力的過激主義」の 90%までがイスラム由来のものであったとしても、イスラム以外の過激主義は現存するのだから、普遍的・包括的な取り組みであるとして、世界が一致協力して対策を進めていく必要がある。