◆繰り返される不幸な現実
シリアをめぐる情勢は、発生から約70年を経た今も何ら解決しないパレスチナ問題に似てきた。武力で家と故郷を追われ、肉親の生命までも奪われた人々にはその権利を回復すべき「大義」があるが、圧倒的な軍事力と無慈悲な冷酷さを兼ね備えた「敵」を自らの手で倒す以外、それを実現する手段はない。国際社会はことごとく正義に鈍感なのである。ユダヤ・ロビーによって大きく歪められた米国の対中東政策がもたらしたパレスチナのこの不幸な現実が、今、隣国シリアで繰り返されるのではないか。それはロシアの不退転の決意によって庇護され、既成事実の積み上げで出現しようとしている「新シリア」(アラウィー派世俗国家)が文字通り踏み潰そうとしているスンニ派住民の姿と重なる。非人道的空爆を非難されたラブロフ・ロシア外相は問題をすり替え、「和平協議を妨害しているのはシリア反政府側の交渉団で、デミストゥラ国連特使がその言い分を聞くとは無責任」とうそぶいたが、その高飛車な姿勢は、バレスチナの権利回復につながる安保理決議案をことごとく拒否権で葬ってきた歴代米国務長官を模倣しているかのようだ。
◆腰の引けたアラブ諸国と米国
同胞パレスチナ人を支援する、と言いながらアラブ諸国はイスラエル一国の前に完全に腰が引けている。具体的には何ら行動せず、「エルサレムを首都とするパレスチナ国家の建設」といった実現不可能なお題目を唱え続けるので、さらに100年たとうが200年たとうが目標を達成することはないだろう。同じことがシリア反政府勢力を支援するサウジアラビアなどの姿勢に見られる。「アサド抜き」の政治プロセスを要求する非現実的な対応には、ラブロフ外相の指摘を待つまでもなく、「無責任さ」が感じられる。やがてシリア分割の国境線が引かれたならば、「ダマスカスを首都とするスンニ派国家」でも要求するつもりだろうか、と思えてくる。またこの諦観を一段と深めているのが、米国の「無気力相撲」だ。アサド政権側がロシア軍機に加えて、ヒズボラやイラン革命防衛隊およびシーア派民兵による前線の戦闘に対する直接支援を受けているのに対し、米側は、直接派兵はおろか、「テロリストを利する」として反政府勢力への武器供与も抑制的だ。
◆難民悲劇の固定化回避へ英知を
周辺アラブ諸国に逃れたパレスチナ人は、70年経っても難民キャンプという「仮設住宅」暮らしで、周囲を塀に囲まれてしまったガザ地区は「巨大な収容所」とも呼ばれている。幸運にも湾岸諸国や欧米に移住できた人たちは2世、3世の時代となっているが、「大義」を訴えるアイデンティティーは消滅していない。同じことが一説に国外400万人超、国内800万人と言われる膨大な数のシリア難民、避難民に起きるだろう。「平和的デモ」で始まった内戦はすでに5年を過ぎた。子供の教育、養育は待ったなしだ。避難民はテントの中で、また、運よく受け入れられた人は欧州の街角で、定着のための新たな戦いの日々を送っている。戦争で故郷をなくすという悲劇は、この地域の人々が歴史上繰り返してきたことに違いない。しかし、それが宗派主義、民族主義の色眼鏡によって語られるとき、悲劇は固定化、長期化すると見てよいだろう。第二のパレスチナを作らないよう人類の英知を結集することこそ、今何よりも求められている。