◆独裁者を苛立たせるのは穏やかな諫言
今年初め、本欄でトルコのエルドアン大統領と、亡命サウジアラビア人記者ジャマル・カショギ氏の二人を相次いで紹介した際、私はこのような事件が起きるとは夢にも思わなかった。それは、惨殺されたカショギ氏も同じであっただろう。「穏健な改革を口にするだけの知識人がなぜ15人もの暗殺集団に殺されなければならなかったのか」―。そんなテレビ取材に、「本人も夢想だにしなかったから、迷わず総領事館に入ったのだろう」と私は答えた。それほどに、独裁政治は何をするかわからない恐しさがある。
「穏やかな諫言こそ、独裁者を苛立たせるのだ」と、あるアラブの政治学者は言う。イスラム過激主義が静かに広がるアラブ・イスラム世界において、その対極の過激主義(=独裁強権政治)を以って秩序を維持しようとする試みは、途方もない恐怖政治を招来している、との批判だ。
◆トルコとサウジは同列に論じられない
その一方で、「記者数千人を投獄している超一級の独裁者・エルドアン大統領がアラブの支配者に『法の支配』を説くというこの構図こそ、最高のお笑い」、という指摘もある。米ウォール・ストリート・ジャーナル紙は、エルドアン大統領を約500年もの長きに渡って中東に君臨したオスマン・トルコの支配者スルタンになぞらえて、トルコとサウジの「歴史的な覇権争い」だと書き立てた。
しかし、20世紀初頭以来世俗主義政策を徹底し、西欧型の民主主義を経験してきたトルコが経験している一種の「独裁」と、議会も選挙もない絶対王制のサウジのそれを同列に論じることはできないだろう。また、トルコの政権をムスリム同胞団(=イスラム過激主義)政権と決めつけ、これと戦っているのがサウジ、エジプト、UAE(アラブ首長国連邦)などのイスラム穏健主義政権だ、といった狭量な見解を吹聴する「専門家」も見られるが、これも明らかな間違いだ。
エルドアン大統領率いる公正発展党(AKP)は、イスラム過激主義を利用して政権に就いたが、政権が拠って立つ基盤は西欧型民主主義。「法の支配」原則は揺らいでいない。一方、アラブ側に「法の支配」はない。イスラム過激主義を逆の意味で利用したエジプトのシシ政権は、クーデターで政権に就いた。その唯一の正統性は(選挙で政権に就いていた)ムスリム同胞団との戦い、にある。
◆漸進的民主化で「法の支配」確立を
近代の中東の歴史を紐解くと、王制が倒れ共和制に移行した国はすべて独裁国家となった。中東は、カダフィ(リビア)、フセイン(イラク)、アサド(シリア)といった血も凍る独裁者達が支配する国と、概ね善政が敷かれ、国民がストレスなく暮らせる君主制諸国に分かれていた。そこに「アラブの春」が起こり、独裁国家群は破綻国家化し、君主制国家に飛び火の恐れが出てきた。サウジアラビアはこの事件を契機に崩壊してしまうのか? これが、日本の企業経営者だけでなく、世界が共有する懸念であろう。
アラブ人に西欧型民主主義は向かない。それは、この世界に接したことのある人の一致する感慨であろうし、過去の共和制がすべて独裁に移行したことを見てもわかる。したがって、この地域と世界の安定を考える上で、サウジをはじめ湾岸君主制諸国の体制維持は何より重要だ。そしてそれを確保するためには、まさしく故カショギ氏が提唱していた「漸進的な民主化」「対話の政治」、すなわち「朕が国家」ではなく、「法の支配」が徹底される立憲君主制への改革が求められるのだ。