総理通訳が簡単な部類に入る、と書きましたが、それは今だから言えることで、当時の通訳駆け出しの私にとっては胃に穴が開きそうなプレッシャーでした。外務省員は、通訳があるからと言って通常の業務を休むわけには行きません。朝の9時半から夜も9時10時まで、「普通の」仕事を抱えています。会談の数日前に通訳を命じられますと、そのルーティーンをこなしながら、来る会談のための下準備をするのです。どんなことでもそうですが、初めて経験することは、とても緊張します。心臓が飛び出しそうになる、という人もいますが、おそらく私がそれほど上ずらず、平常心でやっているかの如く見えたとすれば、それは、私が相当鈍感な人間だ、ということの証明かもしれません。「これが出るかもしれない」「これも調べておこう」と、まるで入学試験の前のように勉強する人も多いですし、わたしも出来たらそうしたいと思いましたが、仕事を抱えているとそうも行きません。そこで、救いは楽観的な性格で、もう、何を勉強しようと無駄だ。今までの実力で勝負すればよいのだ、知らない単語が出ても、命まで取られない…と自分に言い聞かせて前夜は布団を被って少しでも早く寝ることにしました。第一、寝不足で回転しないアタマは、通訳にとっては一番の大敵です。
こんなことをダラダラ書いたのは、2つ目的があります。その1は、通訳という仕事の持つ、緊張感、心理的プレッシャーを伝えたかったからです。また、もうひとつは、そんな困難な仕事にも関わらず、外務省には通訳官というポストも手当もなかった、という恨み節を披露したかったからです。
通訳は、それを比較的得意とする人間にとっても困難な仕事であり、あたかも、恩返しの鶴が羽根を抜き抜き、反物に織り込んでいくような苦痛を伴うものだ、と言ってよいでしょう。私が外務省を早くに辞めた理由は別にありますが、そういう通訳を省内で養成しながら、その技能や、残業、恒常的な心理的圧迫に対する対価としての手当てや昇進の制度がなかったことには不合理を感じ、退職を決断するひとつの材料でありました。もし、通訳手当てなるものがあり、また、困難な通訳をこなす、高度な技能を身につけたあかつきには、それなりの人事的処遇がある、という組織であったなら、この小さな体の中にある競争心がふつふつと刺激されて、今でも奉職していた可能性はかなり高いと思うのです。
そろそろ、この項目の話を締めくくらなければなりません。
私は、(今もその傾向がありますが、)当時非常に天狗になっており、外務省を辞めたら、いち公務員でいる以上に責任と報酬を与えられる仕事が舞い込んでくるだろうという、大変あいまいな動機で辞めました。目指した分野はビジネスのコンサルティングでした。この分野は今も弊社の活動の1部門ですので、読者の皆さん、どうぞ弊社に任せてみませんか、と今でも言わなければなりません(*)。しかし、正直に言って、弊社のこの分野はあまり流行っていません。理由は、簡単です。私は元外交官として、中東の政治・外交情勢についてはおそらくそれなりの見識があったと言ってよいでしょう。アラビア語の通訳、翻訳にかけても職業レベルに達していました。しかし、実業の世界にはまったくの素人でした。そんな私のアドバイスを受けよう、という人はなかなか現れませんでした。
そんなわけで、「ビジネスコンサルティングの」エリコ通信社を立ち上げましたが、期待していたような仕事は皆無でした。ところが、辞めた翌日から通訳をしてくれという電話だけは鳴り止むことがありませんでした。そんなわけで、私は気がついたら通訳者になっていた、と冒頭に(先の記事で)申し上げた次第です。
(*:中東・アラブ向けの事業をする際、弊社のような地域の専門家集団をコンサルタントに加えるべきです。わずかな顧問料で、利益を伸ばし、危機を回避することができます。弊社のコンサルティングを受けずにドバイで大火傷を負った企業があるとすれば、誠にお気の毒です。)
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