構文の違いを乗り越えて同時通訳者が発言者に振り切られないよう追いついて行く技術は、大きく分けると次の3つです。
① 予め原稿を作る
② 何を言うか、予め知っている
③ 予測して先回りする
① 予め原稿を作る
「それは反則だ!?」と思われるかもしれません。しかし、非常に多くの場合、国際会議などの公の場面における発言者は、予め用意された原稿を棒読みすることがあります。このような場合、その原稿が事前に分っていれば、その翻訳文を事前に作っておき、発言者がそれを読み上げるのに合せて、通訳者もまた翻訳文を読んでいけばよいことになります。また、仮に発言者が突如として「アドリブ」モードに入り、違った言葉を口にし始めたとしても、同時通訳者は常に発言者の言葉を耳で確認しながら読み進めているので、その時だけ訳語を変更していけばよいことになります。
実に、これはすべての会議同時通訳で用いられる定石です。逆にもし翻訳原稿を作らずに臨んだら、どうなるでしょうか。一般的に言って、人は原稿なしで自分の頭で考えながら発言する際の話すスピードは遅く、原稿を読み上げるときは早いのが普通です。また、スピーチ原稿というのはほぼ例外なく文語調で、また比較的難解な用語を駆使して書かれていることが多いため、これに翻訳原稿なしでついて行くことは非常に難しいのです。
賢明な読者は、同時通訳者の仕事が、会議の日当日だけあるのではないことに気付かれたでしょう。その通り、同時通訳者は、別途ご紹介する「通訳コーディネーター」の手助けを受けて、会議で使用される資料(中でもスピーチ原稿)の入手に全力を上げます。そして、それらのすべてを予め翻訳しておくのです。これには長い時間と忍耐が必要です。
◎予め翻訳原稿を作ることのメリット
それは、単に通訳者があわてて通訳しなくても済む、ということだけではありません。先にも述べた通り、発言者は正調の文語で、格調高いスピーチをするでしょう。予め翻訳案を作っておけば、その原文にふさわしい、やはり格調があって、意味のよくわかる通訳を期待することができます。これは聴衆にとっての利益です。原稿がないと、よしんばスピーチの速度について行くことができたとしても、その通訳内容はところどころわからなかったり、欠落があったり、平易な言葉に置き換えられていて、演説、スピーチの意味を十分に理解できない可能性が大です。
② 何を言うか、予め知っている
実際の会議ではあまり起きないことですが、話を分り易くするために、通訳者である私と発言者たるAさんは一緒に明治神宮に初詣していたとします。その場合、Aさんが「今朝、私は早起きして…、と言った瞬間に、私は「I woke up early this morning to visit Meiji Shrine…」と即座に「お参りした」とか「明治神宮」という固有名詞を口にすることができます。これは次に説明する「③予測、先回り」とも関連しますが、発言者が何を言うだろうか、ということが大体分かっていれば、通訳者は発言者の口からそれが出てくる前に言うことができます。
実際には、「通訳コーディネーター」を通じて、会議でどのような内容の議論が行われるのか、事前に調べておきます。これはスピーチ原稿の入手と並行して行われるわけですが、場合によっては発言者に直接取材することもあります。発言者が、「これとこれをこんな形でしゃべります。」と、ひとこと言ってくれるだけでも、通訳者の仕事開始前の余裕はずいぶん違ったものとなります。
これはまた、事前の用語、単語調べに直結します。例えば、「大根」の訳語が「radish」だ、と知っていることと、それを実際に使えるか否か、は違います。男性通訳者である私は、大根を食べることが好きではあっても、常にその英語名である「radish」を意識してはいないからです。これは私がよく使う比喩ですが、通訳で使うことのできる単語というのは、通訳者のアタマの中の引き出しの前のほうに置いてある単語だけです。知ってはいても、引き出しの奥の方にしまってある単語は、とっさのときに使えません。従って、会議でどんなことが話されるかわかっていれば、通訳者は事前に使われそうな単語を引き出しの前に揃えておくことができます。
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