新学期が始まり、八王子のキャンパスにおけるわたしの中東漫談が始った。早いもので、こんな貴重な機会を頂いてから6年目に入った。
つめかけてくれた大勢の学生諸君を前に、単位認定の際の評価要素である「出席のとり方」を説明した。
「代返(だいへん)をしてはいけない…」と述べたとき、「代返などという昔の習慣が今の学生の間に生き残っているのだろうか」と思い、「そんなことばは知らないと思いますが…」と聞いてみた。
何の話だろう、とポカンと口を開けている学生もなかにはみられたが、何の穢れも知らないという顔つきの女子学生は少しうつむいてニコニコしている。やはり「偽装」はしぶとく生きているのである。
ちょうど、シャルジャで見聞きした話(前出)を披露した直後であったので、わたしは「そういう『偽装』をしてはいけない。代返は、出席しなくても出席点を取ることができて、こんないいことはないと思うかも知れないが、自ら、教育を受ける貴重な機会を潰していることに気付け、」と訓じた。
帰りがけ、ひとりの教授に出会い、一緒に校門を出ようとしたらその教授は新年度から導入されたという磁気式の出退勤管理カード・システムの操作に戸惑っていた。「今年から、こんなもので管理されるようになったのです」と教授。
いち経営者でもあるわたしは、次のように答えた。「従業員の勤務時間を管理することは、お役所から命じられた経営側の義務です。弊社でも、労働裁量制の社員の勤務時間をどう管理したらよいかと悩んでいるところなのです。ただ、大学の場合、教授を一般的な労働者として管理してよいものか、大いに疑問ですね。」
昔は、小学校の先生を含めて、先生を(嘘をつく対象として)管理するなどという発想はなかった。しかし、現代人は先生のスキャンダルを聞くことに慣れ、時としてそれを期待し、幼稚園から大学まで、教師という「聖職」を引き摺り下ろし、泥と汚物にまみれさせることを何とも思わなくなった。これでは、よい教育は期待できない。学生、生徒は、先生を模範としてではなく、批判の対象として接しているという。
聖職者の地位は、社会全体で守るべきだ。不完全な人間である教師の、マイナス面ばかりに光を当てていては、何のために優れた才能を雇用したのかわからない。社会全体が、教師を無条件に敬ってこそ、その中で、不完全な人間であっても、時間はかかっても、立派な指導者が育つというものではなかろうか。
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