通「役者」、翻訳「家」(No.1)-通訳者になる(1)-

今年、私は50歳になりました。
23歳で初めてアラビア語を習い始め、25歳ごろには初めての通訳をする機会があっただろうと思いますので、私の通訳歴は当年で25年ということになります。エリコ通信社は創業15年になりました。こちらは、私が民間人通訳としてお金を頂いて仕事をした歴史に重なります。
途(みち)半ば、というよりは、「まだ何も知らない、これからだ」というのが率直な感慨ですが、半面、人間50年、明日をも知れない境地に差し掛かっているのも事実です。ささやかな経験を通じて感じたこと、特に、このブログはお客様も参照して下さいますので、お客様に知っておいて頂ければ、と思うことなど、通訳者、翻訳者の側から発信すべき情報を綴ってみたいと思うようになりました。お付き合い頂ければ幸いです。
私は、通訳者になるという自覚、意欲なく、気がついたら通訳者になっていた、という人間です。
弁護士志望で法学部に進んだ私が、憧れていたのは弁護士の「地位と報酬」であって、仕事そのものではなかろうと気付くのにそれほど時間はかかりませんでした。高校時代に機会を得て米国や世界10数カ国の子どもたちとNY州の夏季キャンプを過ごした経験から、私は大学に通いながらも日本のこせこせした社会、偏狭な考え方の友人、先輩、先生(!)、何をとっても、誰に会ってもつまらないと感じていました。そして、将来は、「国際的な仕事」に就きたい、と漠然と考えるようになりました。
アッラーの言葉に、「(人間を種族、部族に分けたのは)あなたがたを、互いに知り合うようにさせるためである」(48:13)というものがあります。人間は生まれながらに、コミュニケーションに対する欲望を有していますが、私の、そのときの漠然とした思いとは、そんな自然な欲求のなせる業だったのかもしれません。普通に、与えられた環境の中だけで育っていれば井の中の蛙ですから、大海に憧れることはありません。しかし、16歳の夏、私は大海を覗いてしまったのでした。
ただ、「国際的な仕事」とはあまりに漠然としています。第一、仕事とは付加価値をつけること、専門性のあることが仕事なのであって、「国際的」というのは相手がガイジンである、ということに過ぎません。そこで、私はもう少しモラトリアムを得ながら勉強を進めるにはどうしたらよいか、と考え、外務省の専門職試験を受けることになるのです。
アラビア語を選ぶ
アッラーの導きにより筆記の一次試験に通った私は、2次試験である面接の前に提出しなければならない身上書の「入省したら研修したい言語」の選択でハタと困りました。今もそうですが、外務省は数十の言語の専門家を養成しています。その「専攻」を、入省するかしないかも決まっていない段階で選択しなければならないのです。
当時も今も、英語全盛で、英語のできない人に居場所はないというのが現代ビジネス社会です。ですから、英語を選ぶことも選択肢としてはあり得ました。しかし、第一に、まだ2倍の競争率を潜り抜けるためには特殊語を選んだほうが有利、というアドバイスに従ったこと、そして、語学の専門性を売り物にしていくのであれば、勉強する人の少ない言葉の方がよかろう、という考えで私は書類の中にある希望言語、という5つのマスを埋めました。それは、ポルトガル語、スペイン語、アラビア語、ギリシャ語そしてフィンランド語というあまり脈絡のない5つの言葉でした。
最初の2つは、ご承知のとおり南米の言語であり当時は今よりずっと関係が薄かったですが、将来性というロマンと大好きな民族音楽がありました。今のブラジル他の発展ぶり、日本との関係の増進ぶりを見れば、私の勘は悪くなかったようです。ギリシャ語は、大学受験英語で習った「It sounds greek to me」という表現を思い出し、欧米人も苦手な特殊言語なら面白いだろう、というノリで書きました。ギリシャ文字はロシア語などに使われるキリル文字のルーツですし、ギリシャの哲学、宗教の広がりが、現代社会の底流として如何に大きな影響を与えているかを考えれば、もし、人生を2度送ることができるなら、ぜひとも挑戦してみたい言葉です。ただ、その当時はそんなことも何も知らないとぼけた一学生でした。また、最後のフィンランド語については、学生時代に取り組んでいたスポーツ、オリエンテーリングの聖地である、というそれだけの理由です。その年、フィンランド語の採用はありませんでしたが、もし採用されていたらどうなっていたか。私は今も外務省に奉職し、趣味のオリエンテーリングを続けていたかもしれませんし、携帯の会社に転職していたかも知れません。
これらの言語が思い浮かんだものの、どれも面接で理由を聞かれてインパクトのある答えになるものではありませんでした。私は下宿アパートの机に向かって、「さあ、どうする」と自問しました。最後に残っている難題は「アラビア語をどうするか」でした。
「これからは国際関係、外交の世界で生きて行く。」そう思って書店の国際関係の棚を眺めていたとき、ひとつの本が目に留まりました。ひとり下宿で運命の決断をした夜よりはだいぶ前のことです。それは「湾岸諸国ーペルシャ湾で今何が起きているか」という、V.ヨークという研究者の書いた時事モノ(翻訳書)でした。いつの間にか私の書棚からは消えているので、押入れの奥にあるか、捨ててしまったかのどちらかでしょう。内容は覚えていないし、今参照しても役に立たない本に違いありません。しかし、その本が私の一生を決めたようです。
私は、新しい言葉を勉強する以上、その言葉が役に立ち、重宝されるものでなくては、と考えていました。人は株を買うとき値上がりを期待して買いますが、アラビア語は何と言っても、値上がりが間違いない、最優良株に思えました。オイルショックからは年月が経過していましたが、それでも、将来中東アラブ世界が世界の耳目を更に集め、資源に乏しい日本の関心の的になることは間違いがないと思われました。そこで「さあ、どうする」となったわけです。
「アラビア語は必要とされている。しかし、希望する人はほとんどいない。だからここに書けば、きっとこれが私の研修語になる。アラビア語で本当にいいのか?」
「フィンランドの森を駆け抜ける夢や栗毛でボインの美女と燃えるような恋に落ちる夢は捨てなければならなくなるぞ」
それは、自ら監獄に収容されに行くようなものかと感じられました。私は、手にした一冊の本以外、アラブと中東のことは何も知りませんでした。命の危険がないにせよ、危険をさけるためには、牢屋に入ったような生活を余儀なくされるのだろうと想像していたのです。自衛官を志願する人も、もしかしたらそんな気持ちになるかもしれません。
その数ヵ月後、「アラビア語をやってもらいます」という予想通りの内示を言い渡された私は、目の前が真っ暗になり、倒れそうでした。

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