From shabakat ana muslima http://www.muslmh.com/
この写真は、引用先の説明によりますと1968年に撮られたドーハです。拙稿(1)の新聞記事が「わずか41年の間に…」と書いていましたが、44年前、独立前夜のカタール、私が小学生の頃のカタールはこんな光景だったようです。唯一の港(桟橋)が見えます。おそらく、まだ港がなく、外洋船は沖泊まりして、艀(はしけ)が荷役をしていたのでしょう。
カタールで最初に石油が掘られたのは1938年ということです。戦後1949年になって石油収入が独立前のカタール(首長家)に支払われるようになります。その石油収入がこの国を変えていくわけですが、68年ごろはまだこんな状況、気温48度、湿度100%近くに達する大変な気候の中で、冷房など備えていない家がほとんどだったのではないでしょうか。
次の写真は、わたしが赴任した1987年頃の私の記憶にもっとも近いイメージの写真をネット上から拝借したものです。
この写真は、コルニーシュ(海岸通り)からWest Bayのシェラトンホテルを望んでいます。海岸通りは、独立直後に実権を握ったハリーファ前首長(現首長の父)によって整備された首都の都市計画の中でも特筆されるべきものでしょう。昔の写真で見えているちょうど波打ち際あたりに、広くて街路樹の植えられた、市民憩いの美しい海岸通りが建設されました。カイロから赴任したその日だったか、翌日だったか、大使館の上司夫妻が、上司自ら運転する車で私達を案内して下さいました。そのとき私の目に飛び込んできたこの光景(海の色は本当はもっとエメラルド色なんです)を忘れることができません。
ドーハは本当にチャーミングな街でした。その後カタールが非常に裕福になったにも拘わらずあまり開発が進まなかったとして、ハリーファ首長は「けち」呼ばわりされていましたが、こじんまりとした、静かな街のインフラは非常によく整っていました。ハリーファ首長は、華燭を好まず、石油収入をきちんと工業化に投資して、ポスト石油時代に備えようとしていた名君でした。
私が着任した年、ドーハの南50kmほどのところに位置するメサイド工業地帯では、カタール製鉄(QASCO)が神戸製鋼㈱の技術指導の下、立派に独り立ちしていました。日本の、同社の優れた還元鉄製法が技術移転され、契約に基づき当初はほとんど日本人で立ち上げた会社が、どんどんと現地役職員、労働者に引き渡されている、その途上にありました。QASCOのウェブサイトによりますと、同製鉄所の鉄は現在は日本に輸出されている(つまり世界最高品質であることが証明されている)ほか、中東の4大製鉄所のひとつに数えられているということです。
最後に、この写真を見てみましょう。このイメージが現在のカタールです。写真の右手にすぐシェラトンホテルがあるのですが、もし今、ひとつ前の写真の位置から眺めると、かつて威容を誇っていたこのホテルはこれらの高層ビル群に溶け込んでしまってどこにあるのかわからないほどです。これらのビルの建っているWest Bay地区は、最初の写真の時代には海でした。ハリーファ首長の時代に埋め立てられ、息子のハマド首長の時代にビルの乱立が始まったのです。この高度成長を可能にしたのがLNG(液化天然ガス)の開発でした。
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