◆イラクは本格的な内戦状態
バグダッドで、またベイルートでと、自爆か、仕掛け爆弾であるかを問わず、冷酷な爆弾の爆発で罪のない多数の人々が死傷したというニュースを聞かない日はない。特にイラクでは政府軍(シーア派)がスンニ派住民武装勢力の拠点である中部ファルージャ県を攻撃し自国民を殺害するという本格的な内戦状態が出現している。スンニ派とシーア派の対立は、その教義上の違いばかりが強調され、あたかも、この21世紀の世に宗教戦争が起きているかのごとき錯覚に陥るが、それは7世紀に起きた当時から既に宗教に名を借りた権力闘争であり、実力者が政敵を倒し覇権を実現するために宗教が利用されている側面を忘れてはならない。
◆殺す論理は「不信心者」
「イスラムは平和の宗教だ。イスラム教徒が人殺し、しかも、同胞を殺すなどということは絶対にあってはならない」と宗教家は説く。しかし、最も宗教心があついはずの「宗教的過激主義者」が熱心に人殺しをしているのはなぜか。それは彼らが、聖戦(=自衛のための戦争)の論理を援用しているからだろう。イスラム教徒の世界(イスラム共同体)が攻撃を受けるとき、この共同体を守るために戦うのはイスラム教徒の義務である、とアッラーは言った。しかし、相手もシーア派とはいえイスラム教徒だ。どうしてこれを敵視して殺すことができようか。そこで考案されたのが、一方的に相手を「不信心者」、すなわち異教徒であると宣言するという行為だった。
◆代理戦争の圧力増すばかり
アラビア語で「タクフィール」と呼ばれるこの奇妙な教義解釈では、「お前は不信心者だ」と宣言すれば、相手がたとえ敬虔(けいけん)なイスラム教徒であったとしてもその瞬間に不信心者(=異教徒)とみなされ、これを爆殺することで自らは天国という報償が与えられる。実に身勝手な論理であり、その非人道性がアッラーのご意志であるはずはない。アルカーイダがビンラディン時代のように欧米・イスラエルを標的とせず、身近なシーア派ばかり攻撃していることの説明はこのようにすることができるが、英語メディアでも引用されるこの概念を邦字メディアは一切使用せず、単に「過激主義者」とか「武装勢力」で片づけてしまうため、日本人の対イスラム理解は少しも深まらない。困ったことである。