エジプトの行方

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血色良く、太った「病人」の囚人はきょうもベッドに横たわって裁判を受ける。今夏始まった世紀の大統領断罪裁判は、裁く側が革命を起した民衆ではなく、大統領自身が守り育てていた旧体制、すなわち軍部であるという致命的、構造的な欠陥を抱えたまま進んでいる。
850人以上が治安部隊及び政府に動員された暴力集団によって殺害され、数千人が負傷した「革命」時の市民の血の代償を誰が払うのか、ということが争点である。テレビ中継を取りやめる決定が出たため、世界のメディアの関心は急速にしぼんだ。写真は来週いよいよ、軍最高幹部のタンタウィー将軍ら軍幹部が相次いで法廷で証言する、というこの「演劇」裁判のクライマックスがある、という記事だ。
エジプトにとって、また世界にとって、この老人の生き死にはもはやどうでもよい問題だ。より重要なことは、革命を起したものの現在は「途なかば」、あるいはほとんど失敗している民主化運動が、どのような形で新生エジプトの建設を前に進められるか、である。軍が強い影響力を持ちながらも民主的な選択と政治、国際協調のできるトルコのような国家体制を築くことができるだろうか。おそらく衆目が一致していることは、エジプトにはそれが難しいのではないか、ということだ。
6日の夜、都内でシニアな人々が集まるある会合で、「アラブの春」の捉え方についてお話をさせていただく機会があった。私が大事だと思うのは、イスラムの歴史におけるひとつの節目として、宗教的思想のせめぎあい、常に宗教を政治に利用してきた中東政治における3つの宗教思想の強弱、という観点で個々の事象を捉えていくことではないかと思う。
論文にしなければ議論が乱暴になってしまう話であるが、最も簡単に言えば、スンニ派という言葉に代表される「穏健」「合理的」「大勢順応」「なるがまま」な態度と、「異端」「神秘主義」「宗教の政治利用」といった特色を持つシーア派的態度と、「原理主義」「過激主義」的なイスラム過激主義(その源流を「ハワーリジュ派」に求めたい)の3つ巴の戦いが繰り広げられている。
エジプトにとどまらず、このところの趨勢は過激主義が優勢なように見える。過激主義は何も生産せず、急速に人々を失望させるだけであろうが、現在、中東の人々はまだその頂上を見ていない気がする。

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