イスラエルは人種差別の国である。
人種差別という言葉は、白人がアフリカ系の市民を差別したことに端を発する用語だから、適切でないかもしれない。ユダヤ人とアラブ人は見かけは同じ(服装で区別しているが)で、おそらく人種的には同じであろう。ユダヤ・イスラムの双方の宗教で教えられる神話によれば両者の祖先は兄弟で、
その子の代以降に分かれたのだから、「従兄どうし」というのも何か納得できる説明に聞こえる。またイスラエルに住むユダヤ人とアラブ人を比較すれば、むしろユダヤ人の方が世界各地から「帰還」したため、青い目の人あり、黒人あり、でバラエティに富んでいる。
だから、生物学的な「人種」差別ではない。「人種」が信仰というアイデンティティによって決まり、それに基づいた差別が行われる国である。差別といっても、南アや、かつての米国に見られたような、あからさまな差別的取り扱いではない。アラブ人といえども、イスラエル市民として、ユダヤ人と平等に選挙・被選挙権が与えられ、社会保障制度の恩恵も受けることができる。
人種差別は、近代の西洋的価値観の中でひどく忌み嫌われ、多くの国で人類が克服すべきものの代表例のように考えられているが、世界はさまざまである。
イスラエル北部に住むアラブ系キリスト教徒ヤヒヤさん(仮名)は、5人の子供を育てあげ、全員に大学卒業の学歴を与えることができた。イスラエルに住むアラブ人として、何の不満もないどころか、イスラエル国民として幸せだ、と真顔で言う。考えてもみてほしい。彼のように平穏で、幸せな家庭生活を送ることができたパレスチナ人がいるだろうか。シリアのアラブ人に選挙権はあっても、アサド大統領以外の投票をする権利は保障されていない。占領地に逃げていれば、難民キャンプの中で、パレスチナ人同士の抗争に巻き込まれて家族を失っていただろう。
2000年ほども前に離散の憂き目に遭い、以来渡り歩く先のすべてで差別されてきたユダヤ人にとって安住の地を確保しようとすれば、その地こ共存する異民族に差別的扱いをしなければならなくなるのは当然の論理的帰結である。その差別の中には、修正すべきか、修正することが可能なものもあるだろう。しかし、アラブ人の人口増加率の方が大きいという事実を前に、むしろ差別的な取り扱いは激化していく可能性もある。
私は、以前レバノンのシドン(サイダ)を訪れたとき、アッカ(アッコ)から逃げてきたというアラブ人の家族に会ったことがある。
「ここから少し先に行けばすぐ国境。その先に私たちの故郷があるのです。おそらく生きて再び訪れることはできないでしょう。この波止場に来て、いつも故郷を偲んでいるのです。」と父は語った。
今回、アッコを訪問して、多くのアラブ人が(楽しいか、苦しいのかは知らないが)しっかりと生活している姿を見た。おそらくヤヒヤさんのような感慨の人もいれば、そうでない人もいるだろう。シドンの家族を呼んであげたい気持ちになった。しかし、そのためには、ユダヤ人、アラブ人ともに心の垣根を取り払わねばならない。あと何十年、いや何世紀かかることなのだろうか。
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