崩れ行くCD合意

「乳と蜜の流れる場所」イスラエルとアラブ世界とを隔てているのは、人を寄せ付けない厳しさでそそり立つシナイ半島の岩山である。エジプトを出たモーゼが40年間放浪したとされるこの荒涼とした砂漠山脈地帯は、その利用の仕方ひとつで自然の要衝ともなれば、敵の絶好の隠れ家にもなる。
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    モーゼが十戒を授かったとされるシナイ山の朝 ©erico 2009
イスラエルが、建国後の四半世紀を領土拡張と安全確保のための四回の戦争に費やした結果選択した戦略は、この半島を非武装地帯とする条件で放棄し、南からの絶対的な脅威である「アラブ軍の侵攻」の悪夢から解放されることだった。
1978年にカーター元米大統領の仲介で成立したキャンプ・デービッド(CD)合意から既に三十有余年。この間、イスラエルがどれほどこの平和協定の恩恵を受けてきたことか、また逆に言えば、安全保障戦略上の優位に立つことができた同国の国際法を無視した非人道的な攻撃のために、パレスチナを含む周辺諸国の市民がどれほどの犠牲を強いられてきたかはここで繰り返す必要がなかろう。
そんなCD合意について、「『聖典』ではないのだから、見直しの議論が可能」とシャラフ・エジプト首相が発言した。トルコの衛星テレビ向けに発せられたこの言葉の衝撃は大きく、イスラエルは直ちにエジプト側の真意を問い質すなどの対応に追われた。
このような変化の背景には、もちろん、「アラブの春」がもたらした、ムバラク政権の崩壊という現実がある。
8月18日、パレスチナ系の「テロリスト」がガザ地区から、シナイ半島のエジプト領内を「回廊」に使って南下し、イスラエルの国境のリゾート地・エイラートに侵入した。民間人、兵士合わせて7人が殺害されたこの事件発生の主因は、エジプト政権崩壊によって、ガザ地区・エジプト間の境界線警備が甘くなっていることにある、とイスラエルは主張している。襲撃直後、実行犯らはエジプト側の町タバに逃げ込んだため、追跡していたイスラエル軍は国境警備の丸腰に近いエジプト兵めがけて発砲、5人の兵士が殉職した。
この「暴挙」にエジプトの国論が沸騰、駐エジプト・イスラエル大使の追放を求めるデモが常態的に起きていたのである。9月9日夜にカイロで発生した数千人の暴徒によるイスラエル大使館襲撃は、このような空気の中で引き起こされたものだった。
大使館襲撃という、国家主権を無視したはなはだしい違法行為はひとことで言って極めて野蛮であり、世界的にもあまり例を見ないものである。そして中東における過去の例としては、誰しもイラン・イスラム革命に付随して起きた、米大使館襲撃・人質事件を想起することだろう。
それだけに「国の名声に傷がつくのではないか」、「国際制裁を受けるのではないか」と当初心配した、とエジプトの評論家は言う。ところが、事態はその後反対の方向へ向かう。すなわち、イスラエルや米国が強硬なエジプト懲罰の政策をとるのではなく、逆に外交関係の堅持(救出された大使の早期のエジプト帰任意向)をイスラエル側が表明するなど、大使館襲撃が「人民の偉大な勝利」として認識・評価されている(前出評論家)というのだ。
このイスラエル大使館襲撃という事件、調べれば調べるほど特異な事件であることがわかる。
金曜日の恒例となっているタハリール広場付近のデモが、突如方向を変えてイスラエル大使館を包囲した。デモ隊の中には、大使館周囲のコンクリート壁を破壊する道具を所持した者がいたにも拘わらず、治安当局は何の規制も行わず、また、この壁を突き崩して暴徒が建物内に侵入するには相当の時間がかかったのに、当局はほとんど何の手出しもしなかった。
このため、ネタニヤフ首相の救援要請を受けたオバマ米大統領がタンタウィー国軍最高司令官に直接電話して、漸くエジプト特殊部隊の投入が実現、館内に取り残されていた6人のイスラエル側警備要員の救出が可能になった、ということである。襲撃を主導した約150人の暴徒たちは、前日に「篤志家」によって集められ、一人あたり20万円近く(平均年収に匹敵する額)の現金が入った封筒を渡されていた、との報道は、この襲撃が周到に計画された一大謀略であったとの印象を強く訴えているが、このアハラム紙報道そのものが、エジプト当局の何らかの言い訳のために捏造されている可能性も捨てきれない。
いずれにせよ、この「大勝利」は単にエジプト国民の胸のつかえをなで下ろしただけでなく、アラブ世界全体に「イスラエルに対抗するにはこの方法に限る」、「こんなうまい方法があったのか」という高揚感をもたらした。このためイスラエル大使館を受け入れているもうひとつの前衛国ヨルダンでも、同様のデモ(そして襲撃)がフェイスブックで呼びかけられた。
このデモは、首都アンマンの米大使館前で数百人、イスラエル大使館前では数十人が平和的に集まっただけで不発に終わったが、イスラエル大使は不測の事態を回避するため前日から本国へ帰り、大使館は閉鎖するなどの措置がとられた。つまり民衆が「戦わずして勝っている」状況が出現した。デモ参加者が掲げる「今回はデモだけにしておく」というプラカードの不気味さは、国民の過半数がパレスチナ人というヨルダンで、ひとつ火がつけば親米・親イスラエルのアブドラ国王の地位すら脅かしかねない展開を予感させる。
このように、「デモ=民衆蜂起」の思いがけない力に自信をつけたアラブ各国の民衆の勢いの中には、「イスラエルと妥協するような政権は今後許さない」といった強い方向性を感じ取ることができる。
暫定的な革命政府を率いるシャラフ首相は、旧閣僚でありながらタハリール広場でのデモに参加したことで民衆の支持を得ている人物だ。観測筋が指摘するように、大統領選挙をも見据えて、人気取りのために敢えて波紋を投げかけようとしたのかもしれない。だが、インターネットで的確な中東情報発信を続けている野口雅昭元大使も指摘するとおり、この発言は「逆効果で、現実には当分その改正が難しくなった」と見てよいだろう。
しかし同時に強く認識しなければならないことは、もはやイスラエルの一人舞台を許したCD合意の安全保障体制は、協定内容をうんぬんする前に、自壊を始めている、ということだ。モーゼが放浪した四十年、という年月に不思議な暗示を感じるのは筆者だけであろうか。
このようにかつてなく危機感が高まる中、パレスチナの国家承認を国連で成し遂げようなどという計画が通る可能性はない。この原稿が読者の目に触れるときには、この問題についてのとりあえずの結論が出ているタイミングであるが、かつてない緊張感の高まりの中で、偶発的かつ不幸な事件に発展しないことを祈るばかりである。(9月21日記)
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