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コミュニケーション

1994年7月に設立された弊社(エリコ通信社)は、今年で20周年を迎えた。
だから告白、ということではないが、物忘れがひどくなる一方の老境を迎えて語っておくべき話はなるべく残しておきたい。
社名の「エリコ」について、それはパレスチナの「エリコ」から名付けたのか、とよく聞かれる。事実は少し込み入っているのでずっと謎、ということにしておこう。ただ、エリコについては聞かれても、なぜ「通信社」なのですか?とは今まで聞かれたという記憶がない。弊社は販売したり貸したりする通信設備を持っていないし、共同通信社のようにニュースを売っているわけでもない(似たようなことはしているが…)。不思議なのは、「通信社」の方ではないだろうか。

実は、「エリコ」の方は愛称であって、お客様に親しまれる名前であれば何でもよかった。一方の「通信社」は、小生が官僚という安定した地位(?)を捨ててもやりたいと思ったことに直結していて、私(わたくし)的には、より重要なのだ。役人を辞めて一体何をするのか。会社を作る、となったとき、私は社名には「コミュニケーション」のひとことを付けたい、と思った。それが私の追及したかった仕事だから。ただ、20年前に感じたことは、カタカナで長い名前をつけると軽くなり、早く潰れるかもしれないと思い、無理に和訳して「通信社」とした。

小生が「スピンアウト」したのが、「世界平和のために尽くしたい」と思ったからだ、というのは本当である。実に恥かしい話であるが、自分の能力を過信していて、「外務省という組織に居ても世界平和のために自分が貢献できることは限られているが、自由にやらせて貰えれば、もう少しましなことができる」と思ったのだ。実に不遜な考えである。恥晒しではあるが、「コミュニケーション」のプロになろうとした原点なので触れざるをえない。

私は職業外交官の卵として、コミュニケーションの不足(=誤認、誤解)がどのような悲劇(=戦争)を招くかについて叩きこまれ、また、短い役人生活の大半を占めた小さな大使館勤務において、電信官を始めとするコミュニケーションに関わる業務のほとんどに携わる得難い経験をした。この中で、私は世の中の事象を「コミュニケーションの善し悪し」という観点から見る習慣がついた。そして「上手なコミュニケーションを助ける仕事」は、助けられた人(顧客)に大きな利益と喜びをもたらし、また、それが国際間のコミュニケーションであれば、何より戦争防止、世界平和に直結している、と思った。

現在弊社の「主力商品」である通訳翻訳サービスは、コミュニケーションになくてはならない要素であるから、その範疇の仕事として大切である。大切であるが、正直なところを言えば、当初、小生はこの分野に深入りするつもりはなかった。だから、当初会社の定款にも謳っておらず、後に公的な入札資格を登録する際に指摘され、慌てて登記をし直したほどである。やる気はないのに、頼まれるのは通訳ばかり、ということで、自分の代わりに通訳してくれる人を探して徐々に大きくなったのが弊社の通訳(翻訳)部門である。

ただ、そのような志で始めた仕事であるため、弊社の展開する通訳翻訳サービスはすこぶる評判がよい。私が見込んで業務をお願いしている各通訳者・翻訳者は、よりよいコミュニケーションを実現することの歓びをお客様に分け与えていると思う。

英語の「Communication」には「交通」すなわち人が行き交う、という意味がある。私は会社設立当初からアラブと日本の間で人々の交流を活発にさせることが一番大事な仕事だと思っていた。わが国の旅行業の起業に厳しい障壁を打ち破る体力と創造力があれば、この方面をもっと伸ばしていたことだろう。ただ、20年が過ぎて、環境が激変した。当時直行便はゼロであったが、今は一日何便もの大型機が日本と湾岸諸国、トルコ他を結んでいる。わが社には、まだまだやるべき仕事が残っていると思っている。

不信心者(ふしんじんもの)

久しぶりに「講演」をして、短い時間にイスラムの基本的な概念を説くことの難しさを感じた。新釈「アラブの春」講演の全体像は、いつかこの欄でご紹介したいと思うが、きょうは特に通じにくかった「不信心者」(英:infidel、亜:kaafir)について所感を記す。
「タクフィール(takfir)」(←相手は不信心者である、と宣言する)という不思議な動詞(ここでは動名詞)に基づく、「「タクフィーリー」という集団の存在は、アラブの春の現状と今後を語る上で外すことのできないキーワードだが、その説明が厄介なことが主因なのか、邦字メディアに登場したのを見たことがない。これはある意味日本マスメディアの怠慢であって、少し解説をつければ誰でも理解できる概念である。
説明しない⇒誤解が広がり無関心が増える⇒報道しない⇒更に無関心になる⇒ますます報道しない
この悪循環で日本人は益々世界の情報の宝庫・中東から離れた田舎者になっている。悪い意味で米国市民の後追いをしている。
不信心者、という言葉は漢字で書くと意味は8割方伝わるが、音で聞くと最初に「ふ」という聞き取りにくい音が入っていることもマイナスに働いて、何のことかわからない。この言葉を日常聞くことも、目にすることも、イスラム学かキリスト教神学の学生以外は100%ないので、私の話も理解し辛かったらしい。
イスラムは平和の宗教であり、イスラム教徒がイスラム教徒を殺すなどということは絶対にあってはならない。然るに、その宗教心の篤い人たちが熱心に人殺しをしているのは、他でもない、この「タクフィール」思想を援用しているからである。つまり、「お前は不信心者だ」と宣言すれば、相手がたとえ敬虔なイスラム教徒であったとしてもその瞬間に「カーフィル(不信心者)」となり、ジハード(聖戦)の論理、即ち「イスラム共同体の敵を攻め滅ぼすのはイスラム教徒の義務」が適用できることになる。
アルカーイダなど、イスラム教スンニ派過激主義者はこの思想を武器にイラクのシーア派やシリアのアラウィ派イスラム教徒と闘っている。また、忘れてならないことはサウジアラビアの国家の基盤であるイブンワッハーブの教えもこのタクフィーリーであり、その御旗の下にシーア派が討伐されて現在のサウジアラビアが成立していることだ。
もうひとつ、重要なことは、宗教に傾倒すればするほど、このように信心者=信者(ムーミン)と不信心者=異教徒を区別して考えざるを得なくなるという点だ。宗教的過激主義者でない人でも信仰心の篤い人と、われわれとの間に深い溝のようなものを感じながらはや30年の月日が流れた。仏教徒は100%カーフィルである。