浜岡原発の停止

福島原発の津波想定高の話の続きである。
津波は天災だが、津波が来たら壊れる原発を作って「安全だ」と住民、国民を騙していた人々のせいで事故は起こった。だから人災である。
そんな許しがたい犯罪を犯した者を引き出して火あぶりにしても、多少胸のつかえは下りるかもしれないが、汚染被害の回復、損害賠償は実現しない。東電が賠償することになるが、東電にそんな資金はなく、第一、潰すわけにも行かない。結局、東電が賠償するということは国民がみんなお金を出し合って被災者を助けるのと同義である。それは関東地方の住民だけでない。日本全国、電気代を払わない人はいないので、皆で負担するのである。起きてしまったことは仕方がない。窮地の同胞をみんなで助け合うのは当然である。
このとき、政府の役割は、ひとつはそういう事態が起きたことの責任を明らかにして、罰を受けるべき人にきちんと罰を与え、二度とそういうことがおきないようにすることだが、もうひとつは、国民の負担が、できるだけ軽くなるよう英知を集めてベストの対策をとることである。
いろいろな対策がある中で、ただでさえ、電力供給能力が足りず、日本中が貧乏になることが目に見えているときにすべきことは、普段にもまして電力の安定供給のための策を施すことだ。ところが、この総理は独断で浜岡停止という暴挙に出た。この行動が如何に奇妙キテレツであるかということをいくつかの角度で述べておく。
第一は、本来、供給を増やすよう努力しなければならないときに逆のことをした、という愚。
3週間ほど前、師匠のピエール・シャマスが来日したので「総理がかくかくしかじかで浜岡を」と以前から気になっていたこの件を話題にした。その時、即座に師匠の口をついて出た譬えが実に滑稽であった。「まるで、アタマに血が上った男がカンカンになって部屋に閉じこもり、中から鍵をかけてその鍵を窓から放り出したみたいだな」
もちろん単に笑い話で終えてよいことではない。本当に処置ないことをしでかしてくれたと思う。
第二は、大型連休の合間に、独断でやったことであって、如何に首相といえども、手続きに違法の疑いが濃い。
ここまでのことは、今日の内閣不信任案決議についての審議でも野党側がいちおう指摘したので、少し、ホッとした。この議論が、国政の場でも、メディアにおいても、これまでほとんどなされていなかったからだ。なお、野党の先生方は踏み込まなかったが、おそらく、総理がそのようなことをしたのは、事前に議論を始めては抵抗に遭ってしまい「歴史的局面に日本を救った総理」といった「後世の評価」(管さんの好きな言葉)を得るであろう原発停止命令を出すことはできない、しかし、今やってしまえば、国民感情が反原発になびいているので誰も原発賛成とは口に出せない、特にマスコミは沈黙する、と見透かしてのことであろう。見事、異論を唱えた大メディアは一社もなかった。
私は、この問題にもうひとつ重大な論点があると思っている。それは、浜岡が、これほどまでに日本中が電力を必要としているときに緊急に停めなければならないほど危険な発電所だったのか、ということについての検証と議論がおこなわれていないことだ。もし、本当にそのように危険な発電所だったのであれば、福島について述べたように、そのような発電所を設計し、許可した人の責任を追及しなければならないが、政府も、メディアもそこに全く踏み込んでいない。
他方、浜岡がそこまで危険といえる代物でなかったのであれば、なぜ、停めたのかということ。こちらの責任は本当に大きい。安全性を確保する高度な見識と技術、プロフェッショナリズムも、電力の安定供給という多数の国民の利益も、感情論と政治家の功名心だけで踏みにじられたのだ。結果として更に経済が悪化すれば、どれほど多くの人が苦しむだろう。それこそ大島副総裁の本日の提案理由説明にあった言葉を借りれば、最大不幸社会に向かってまっしぐらであるというほかはない。
このように書くと、私が原発推進論者であると思う方がいるかもしれないが、私は原発は廃止すべきだと思っている。しかし、その安全な廃止にはまだ数十年の時間を要する問題なのだから、安全を確保しながら、技術を磨いていかなければならない。代替エネルギーを開発し、順次切り替えていかなければならない、という風に考えている。

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