エネルギーはみんなのもの(3)

「再生エネルギー」原理主義…、「原発反対という」原理主義
読売新聞コラム「編集手帳」(6月17日付=写真)を読んで、「これは復古主義であるという点において、イスラム過激主義と非常に良く似ている」と思うことがありました。ちょうど、大学にイスラム文化論の講義に向かっていた車中で読んだから気づいたのかも知れません。
「夜になったら(電気をつけず)眠ればよい」、「夜が暗くて危なければ、仕事にいかなければよい」といった『暴論』を、編集手帳子は「『従う』、『却下する』の他に『トゲとして胸に刺しておく』という応接もある」と随分と慎重な言い回しをしています。悲惨な原発事故に見舞われた我が国においては、そのような『暴論』さえも、広く支持を得そうな気配の中で、随分と悩まれたのではないでしょうか。この記事からはや1ヵ月半経ち、実際に原発停止と電力供給の問題がクローズアップされる中で、世論には多少の変化はあるようですが、今も「原発=悪」「自然エネルギー=善」という思考停止的感情論が大手を振って歩き回っていることに変わりはないでしょう。
さて、世界的な課題であるイスラム過激主義(原理主義、復興主義とも呼ぶ)をどう捉えるか、ということについては、極めて短く言えば「社会の停滞は宗教が正しく実践されていないことが原因であると考え、過去の優れたイスラム社会の慣行に立ち返ろうとする」運動である、と定義づけることが可能でしょう。この考え方と「暗くなれば寝ればよい」という自然主義(?)は、「時計の針を戻すと良いことがある」という復古主義の共通項で括ることができるという点で似ているな、と思った次第です。
復古主義は、すべての民族が、歴史の様々な場面において繰り返し陥る「罠」のようなものだと思います。その響きは甘く、また一見非常に正しく、究極の問題解決がそこにあるかの如き錯覚をもたらします。しかし、実際にそれが上手く行ったためしはありません。なぜでしょうか。
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それは、復古主義が人間の本質、人間社会の現実に反しているからです。
『暴論』として「夜になったら寝る」生活を例示されましたので非常にわかり易いのですが、仮に日本中が電気のない生活を始めるとしたら、あるいは始めなければならなくなったとしたら、どういうことが起こるでしょうか。現代社会を支えている経済活動のほとんどが失われ、人口は10分の1とか20分の1とかに激減するでしょう。そのような社会が仮に理想であったとしても、今の生活があり、明日に希望を持って生きていたいと願う人間はそれを受け入れることができないでしょう。
こういう議論をすると、「いや自分は10人中の9人のうちのひとりとして死んで行って本望だ。きれいな地球を子孫に残すのだ」という主張をする人が必ず出ます。しかし、もし実際にそういうことが起きたら、ええ、つまり、「自然主義」の政党だか運動だかが日本を支配して発電所を全部止めてしまったら、「自分が率先して死ぬ」と言っていた人がしぶとく生き残ろうとし、反対論者を追放し、死に追いやるということが起きるでしょう。そんなバカな話は起らないだろう、と読者は思うでしょうし、私もそう思いたいのですが、具体例はあえて上げませんが、イスラム原理主義、イスラム過激主義の世界で起きていることは例外なくそういうことです。それは、共産主義の世界でも同じでした。
議論が少し脇道に逸れているので修正します。
天(アッラー)は人間を「進歩発展を求めてやまない」動物に創造したようです。鳥を見れば飛行機を発明し、雷を見れば電気をコントロールしました。社会学的に言えば、人類は宗教権威による支配を脱し、より世俗的な社会の中で、貨幣経済を発達させています。そのような中で地球環境は激変し、現代文明は「持続可能な社会」を目指して舵を切ろうとしています。しかし、そのことすら上手く行かない。おそらく、明日から直ちに「夜になったら寝る」生活を始めたとしても、壊された地球環境は戻らないのではないでしょうか。われわれがよい環境を子孫に残していかなければならないこと、その真実に疑いの余地はありません。そのための我々の努力は、地球環境の悪化をある程度遅らせるかもしれません。しかし、聖書にも、聖クルアーンにもあるように、ある時、最後の審判の日が訪れることだけは避けられないのだろうと思います。人間は、知ってか知らずか、ひたすらその日を目指して歩んでいるように思えてなりません。
私の意見では、このように変えることのできないもの(=人間の性<さが>)を「変えることができる」と誤認するか、あるいは知っていながら無視してしまうのが復古主義だ、ということです。
「再生エネルギーの開発を推進すべき」ことは、全く異論のないことです。しかし、それは技術的な革新、ブレイクスルーを起こして行く過程で実現されるべきであって、全量買取制度という、ただでさえ苦しい国民生活、国民経済に更なる負担を強いる方法で実現すべきではないと思います。そのような方法で、多少ソーラーパネルの設置が進んだとしても、日本の国自体が沈没してしまうでしょう。
その逆に、安価で安定的な電力供給を確保し、日本の経済が望まれる健全な姿に戻ることができれば、日本人の頭脳は有機的な結合は促進されて、世界NO1の再生エネルギー技術を生み出すことも可能になるでしょう。
「原発反対、原発廃止」ということについても100%賛成です。しかし、原発を廃止することによる経済的損失(代替発電源たる炭化水素の輸入額増と無理な計画、計画変更に伴う電力会社資産の毀損とコスト増)、環境負荷の増大を考えると、安全性の低い炉、老朽化している炉から順次廃炉を進めていくという漸進的なアプローチが適切でしょう。また、忘れてならないことは、原子力の平和利用に関する技術者、研究者の育成を怠ってはならないということです。「こんな事故を起したのだから日本の原発はもう売れない」という議論がまかり通っているようですが、これは全く逆であります。「事故を経験し、これを克服すればこそ、日本には世界最高の安全技術が集積する」筈なのです。日本人はその技術を誇りとし、全世界に広がっている原子力発電の安全確保に努めて行かなければなりません。転んでも、タダで起きてはいけないのです。そうでなくては、どうやって原爆犠牲者の霊に報い、福島で被害に遭っている人々の願いに報いることができるでしょうか。国民一人一人がしっかりと自らの足で立たなければ、原発被害の保障など、とてもおぼつかないのです。
「脱原発・再生エネルギー礼賛」という原理主義に注意しなければなりません。原理主義が魅力をもって輝くとき、その衣を纏って政権を握ろうとする政治家と、混乱の中で利益を掠め取ろうとする商人が暗躍します。

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