寛大な王

「招かれざる客」と書いて、ふと考えることがありました。サウジアラビア王室は、中東に民衆革命の嵐が吹き荒れる中で、体制変革への内外の圧力を受けて苦しい立場にあります。にもかかわらず、チュニジア大統領の駆込み亡命を許し、エジプト大統領は裁判にかけるな、と圧力を行使し、そしてイエメン大統領には救護ヘリを差し向けて傷の治療に招きました。なぜ、自ら火中の栗を拾うようなことをするのだろう、と。
そして次の瞬間に感じたことは、「やっぱりサウジの王様だ。偉い!」「立派!」という感覚です。厄介者が助けを求めてきたとき、断ることも出来たでしょうに、それを受け入れる、というのは、一言で言って「さすが王様!」「太っ腹!」ということになるのです。
アッラーの99の尊称(美名)のひとつに「カリーム」(>generous>寛大な)という言葉があります。アッラーが寛大におわしますことに比べれば、人間のそれはとるに足らないことではありましょう。しかし、この「Karam(カラム:寛大であること)」という属性は、指導者にとって無くてはならないものだ、という感を強くするのです。
Karamの訳語として「寛大」ということばを当てましたが、Karamの持つ意味は相当に幅広いものです。それは、儒教でいう「徳」にほぼ一致するのかもしれません。「ケチな王様」が長続きするわけはなく、「気前のよい王様」(generous)でなければなりません。しかし、それだけでなく、「高貴な心」、「親切な心」、「親愛の心」といった意味を併せ持つのです。
サウジアラビアは、時代遅れのサラフィー主義(ワッハーブ)を国是としていますので、遅かれ早かれ、大きな改革の嵐に巻き込まれるでしょう。既にその兆候はいくつも顕れてきています。それでも、案外持ちこたえているのは、カリームな王様に対する国民の信頼、親愛の念が大きいからではないかと思い至りました。伝統的価値は、ただ死に絶えるものばかりではないのです。
今次の大震災にあたって、恐れ多くも天皇陛下におかれては、まさに体得されている「カラム」をお示しになられました。しかし、菅総理とその政府がこれだけの批判を受けるのは、国民がこの指導者に「カラム」を感じることができないからではないでしょうか。
昨日は、ペルー大統領選挙のニュースを聞きながら、父フジモリ大統領の亡命に際して、努力された方々、逆のことをされた方々の話も、このことに関連して思い出しました。
翻って、自分自身もカリームな社長、カリームな教員でありたいと自戒し直すのです。

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